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最高裁判所第一小法廷 昭和57年(オ)1011号 判決

上告人

橋本恒夫

右訴訟代理人

鈴木一郎

錦織淳

浅野憲一

山岡正明

高橋耕

笠井治

佐藤博史

黒田純吉

被上告人

東京都

右代表者知事

鈴木俊一

右指定代理人

金岡昭

大嶋崇之

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人鈴木一郎、同錦織淳、同浅野憲一、同山岡正明、同高橋耕、同笠井治、同佐藤博史、同黒田純吉の上告理由第一点及び第二点について

一被上告人が本訴において請求原因として主張するところは、(1) 被上告人は、公営住宅法(昭和二六年法律第一九三号。以下「法」という。)及び東京都営住宅条例(昭和二六年条例第一一二号、以下「条例」という。)に基づき、上告人に対し、被上告人所有の公営住宅である原判決添付物件目録(一)記載の東京都営住宅(以下「本件住宅」という。)の使用を許可し、これを家賃一か月あたり二一〇〇円、毎月末日限りその月分を支払うとの約定で賃貸した、(2) 上告人は、右契約に基づき、昭和三三年七月二五日以降本件住宅に入居しこれを占有している、(3) 上告人は、昭和四九年七月頃、被上告人の許可を受けないで、本件住宅の敷地である被上告人所有の原判決添付物件目録(二)記載の土地上に同物件目録(三)記載の建物(以下「本件建物」という。)を増築した(以下「本件無断増築」という。)、(4) 被上告人は、昭和四一年一〇月二二日頃、上告人に対し同年一一月一日以降一か月あたり二一〇円の割増賃料を徴収する旨の通知をした、(5) 上告人は、昭和四一年一一月一日から同四二年三月三一日までの割増賃料合計一〇五〇円(以下「本件割増賃料」という。)の支払をしていない、(6) 被上告人は、昭和四九年一二月二七日、上告人に対し同五〇年一月三一日までに本件建物を収去して右物件目録(二)記載の土地を原状に回復し、かつ、本件割増賃料を支払うよう催告した、(7) 被上告人は、本件無断増築及び本件割増賃料の滞納は本件住宅の明渡請求事由に該当するとして、昭和五〇年二月二四日、上告人に対し、本件住宅の使用許可を取り消し、本件住宅の明渡を請求した、(8) 本件建物及び本件住宅に付設された物置は、いずれも本件住宅に附合して一体化しており、これら全体が原判決添付物件目録(四)記載の建物を構成している、(9) よつて、被上告人は、右建物の所有権に基づき、上告人に対し、右建物の明渡を求める、というのである。これに対し、上告人は、(一) 本件無断増築が明渡請求事由に該当するとしても、本件においては、上告人と被上告人との間の信頼関係を破壊するとは認め難い特段の事情がある、すなわち、(1) 上告人の家族は、本件住宅に入居した当初は上告人と妻の二人であつたが、昭和三四年一月に長女、同三六年六月に長男がそれぞれ出生して四人家族となり、長女が高校一年、長男が中学一年に進学した同四九年頃には、子供が上告人夫婦の寝所で試験勉強をせざるをえなかつたり、思春期を迎えた長女は便所で着替えをすることを余儀なくされる有様となり、このままでは家族の私生活の秘密を守ることができず、また、狭いため夏は暑苦しく、来客時には応接する場所にも事欠く状況であつた、(2) そこで、上告人は、止むをえず、構造上、原状回復が容易であり、本件住宅の維持保存にも適している本件建物を増築した、(3) また、他にも都営住宅の使用者が無断増築した例が多数あるが、被上告人は、これを黙認している、(4) 被上告人が上告人の本件建物の増築を許しても、他の使用者がこれに追随するということも考えられない、(二) 事業主体の使用者に対する割増賃料の徴収は、借家法七条一項所定の賃料増額請求にあたるので、事業主体と使用者との間に割増賃料の当否又はその額について紛争があるときには、同条二項により、使用者は正当と認める賃料を支払うことによつて債務不履行の責を免れるものと解すべきところ、上告人は、被上告人の本件割増賃料の徴収の適否を争う一方、正当な賃料として従前の賃料額である一か月二一〇〇円の割合による金員を被上告人に支払い、又は被上告人を被供託者として適法に供託しているから、上告人は家賃の支払について債務不履行の責任を負うものではない、(三) したがつて、被上告人の本件明渡請求は効力がない、と主張した。

二1原判決は、本件無断増築は本件住宅の明渡請求事由に該当するとの被上告人の主張について、上告人の本件無断増築は法二一条四項、二二条一項四号、条例一五条四号、二〇条一項五号所定の本件住宅の明渡請求事由に該当するとしたが、上告人の信頼関係を破壊するとは認め難い特段の事情があるとの主張については、本件無断増築を理由とする本件住宅の使用許可の取消及び明渡請求について信頼関係理論を持ち込むことは相当ではないとして、上告人の右主張を排斥した。

2ところで、公営住宅法は、国及び地方公共団体が協力して、健康で文化的な生活を営むに足りる住宅を建設し、これを住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で賃貸することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とするものであつて(一条)、この法律によつて建設された公営住宅の使用関係については、管理に関する規定を設け、家賃の決定、家賃の変更、家賃の徴収猶予、修繕義務、入居者の募集方法、入居者資格、入居者の選考、家賃の報告、家賃の変更命令、入居者の保管義務、明渡等について規定し(第三章)、また、法の委任(二五条)に基づいて制定された条例も、使用許可、使用申込、申込者の資格、使用者選考、使用手続、使用料の決定、使用料の変更、使用料の徴収、明渡等について具体的な定めをしているところである(三条ないし二二条)。右法及び条例の規定によれば、公営住宅の使用関係には、公の営造物の利用関係として公法的な一面があることは否定しえないところであつて、入居者の募集は公募の方法によるべきこと(法一六条)、入居者は一定の条件を具備した者でなければならないこと(法一七条)、事業主体の長は入居者を一定の基準に従い公正な方法で選考すべきこと(法一八条)などが定められており、また、特定の者が公営住宅に入居するためには、事業主体の長から使用許可を受けなければならない旨定められているのであるが(条例三条)、他方、入居者が右使用許可を受けて事業主体と入居者との間に公営住宅の使用関係が設定されたのちにおいては、前示のような法及び条例による規制はあつても、事業主体と入居者との間の法律関係は、基本的には私人間の家屋賃貸借関係と異なるところはなく、このことは、法が賃貸(一条、二条)、家賃(一条、二条、一二条、一三条、一四条)等私法上の賃貸借関係に通常用いられる用語を使用して公営住宅の使用関係を律していることからも明らかであるといわなければならない。したがつて、公営住宅の使用関係については、公営住宅法及びこれに基づく条例が特別法として民法及び借家法に優先して適用されるが、法及び条例に特別の定めがない限り、原則として一般法である民法及び借家法の適用があり、その契約関係を規律するについては、信頼関係の法理の適用があるものと解すべきである。ところで、右法及び条例の規定によれば、事業主体は、公営住宅の入居者を決定するについては入居者を選択する自由を有しないものと解されるが、事業主体と入居者との間に公営住宅の使用関係が設定されたのちにおいては、両者の間には信頼関係を基礎とする法律関係が存するというべきであるから、公営住宅の使用者が法の定める公営住宅の明渡請求事由に該当する行為をした場合であつても、賃貸人である事業主体との間の信頼関係を破壊するとは認め難い特段の事情があるときには、事業主体の長は、当該使用者に対し、その住宅の使用関係を取り消し、その明渡を請求することはできないものと解するのが相当である。

これを本件についてみるに、原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人は本件無断増築をしたものというべきところ、本件無断増築は本件住宅の明渡請求事由に該当するものであるが(法二一条四項、二二条一項四号、条例一五条四号、二〇条一項五号)、前説示に照らし、被上告人との間の信頼関係を破壊すると認め難い特段の事情があるときに、明渡請求は効力がないものというべきである。したがつて、本件に信頼関係理論の適用がないとした原判決には、所論公営住宅の使用関係に関する法令の解釈適用を誤つた違法があるものといわざるをえない。

3しかしながら、原審は、(1) 本件建物は、本件住宅の南側に近接し、基礎に布コンクリートを打ち、六本の鉄骨柱の下部の基礎鉄板(ベースプレート)を地下約三〇センチメートルの基礎コンクリートに据えつけてこれをアンカーボルトで締着し、その周囲を養生コンクリートで補強し、右支柱の高さ3.10メートルのところに幅約三〇センチメートル、長さ約三〇センチメートルのH型鉄鋼を積みあげ、これを各支柱とボルトで締着して梁となし、支柱と支柱、梁と梁との間には直径約二センチメートルの丸鋼の筋かい(ブレース)を施して堅固に組立て、その上部に鋼板製デッキプレートを張り、その上にコンクリートを塗り、この鉄構造体の上に、六畳、四畳半の二間を設け子供の勉強部屋からなる居室部分としたもので、右居室は床面積19.80平方メートル、木造亜鉛メッキ鋼板葺、外壁も波型亜鉛メッキ鋼板で囲い、屋根高は地上約6.5メートルに達し、本件住宅を含む四戸建長屋の軒高をはるかに凌駕している、(2) 本件建物及び本件住宅に付設された物置は、いずれも本件住宅に附合して一体化しており、これら全体が原判決添付物件目録(四)記載の建物を構成している、(3) 都営住宅の入居者の中には、その敷地を利用して違法に増築している者が数多く存在するが、上告人の増築よりも著しく堅固で大規模な増築を無断で行い、かつ事後承認を受けたという事例は見あたらない、以上の事実を認定しているところ、右事実認定は原判決挙示の証拠関係に照らして肯認することができ、右事実関係によれば、上告人の増築した本件建物は、構造上、原状回復が容易であり、かつ、本件住宅の保存にも適しているとはいえず、また、被上告人が本件建物の増築を事後に許容したものとも認め難いところであるから、上告人の家庭に前記上告人の主張するような事情があるからといつて、被上告人との間の信頼関係を破壊するとは認め難い特段の事情があるということはできない。そうすると、被上告人の本訴明渡請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由があるものというべきである。これと結論を同じくする原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、結局、原判決の結論に影響を及ぼさない事項についてその違法をいうにすぎないものといわざるをえない。

なお、所論は、原審が上告人の確約の法理に関する主張について判断を示さなかつたことの違法をもいうが、記録によれば、上告人の右主張は被上告人の借家法一条ノ二に基づく明渡の主張に対する抗弁として主張されたものであることが明らかであるところ、原審は右明渡の主張を容れて被上告人の請求を認容しているのではないから、原審としては右確約の法理に関する主張について判断を示す必要はなかつたのである。したがつて、原判決に所論の違法があるとはいえない。右違法をいう所論は、採用することができない。

同第三点について

記録に徴し、原判決に所論の違法があるとは認められない。論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(谷口正孝 和田誠一 角田禮次郎 矢口洪一)

上告代理人鈴木一郎、同錦織淳、同浅野憲一、同山岡正明、同高橋耕、同笠井治、同佐藤博史、同黒田純吉の上告理由

第一点 割増賃料(一〇五〇円)の滞納と明渡請求について

――借家法七条一項・二項及び公営住宅法二二条二号の解釈・適用の誤り及び理由不備の違法

はじめに

原判決は、上告人が割増賃料制度を不当な制度であるとして、被上告人の割増賃料請求の正当性を争い、従来家賃のみを支払つたことが、明渡請求の理由になると断じた。

一 原判決は、多数の公営住宅居住者が右割増賃料制度に反対し、その支払いを拒んでいることの背景や理由を殆んど理解せず、また借家法七条の適用関係についても、第一審判決をはじめとする多くの下級審判例及び学説が、「割増賃料の請求は、同条一項所定の賃料増額請求権の行使たる性質をも有し……借家法七条二項の適用もある」としているのに反して、あえて異説を唱え、公営住宅居住者が割増家賃の請求の効力を一切争えないとした点で法令の解釈適用を誤り、到底容認できないばかりか、その影響はまことに甚大であり、ただちに数千世帯の運命をも左右することになりかねない。

二 さらに原判決の認め難い点は、原審において裁判長が被上告人に対して割増賃料の請求を取下げるよう勧め、被上告人もこれに応じて一〇五〇円の請求を取下げるなど、実質的には割増家賃関係を原審における争点から排除したかの如き訴訟進行をはかり何ら実質的な審理を尽さないでおきながら、判決においては一転して被上告人自身も請求を取下げた、わずか一〇五〇円ばかりの割増家賃の不払いをとりあげ、これをあらためて明渡理由として認めたことである。

以上のとおり原判決の右の点についての判断は、法令の解釈・適用に明らかな誤りがあり、また原審において審理を尽さないままに行われたものであつて到底容認できない。

第一、何故多数の都営住宅居住者が割増賃料の支払いを拒絶しているのか――割増家賃支払拒絶の背景とその理由

一 割増賃料と収入調査・明渡努力義務・明渡義務

――収入調査等と高額所得者明渡制度との一体性

(一) 原判決が、明渡努力義務規定及び割増賃料規定について判示するところは、次のごとくである。

1 「明渡努力義務規定は、入居者の住居の安定の必要をも考慮し、入居後三年を超え、かつ入居申込の資格たる収入額の基準に比し、ある程度高い別箇の基準(第二種東京都営住宅の場合は前者は月額二万円以下であるに対し、後者は月額二万五〇〇〇円以上とされている。)を超える収入のある者のみに、明渡に努力する義務を課しているに過ぎない。

2 「入居者の収入が増加した場合に割増賃料規定により一定の基準に従い、援助を削減する手段として入居者に割増賃料を課することは、割増賃料と本来の賃料を合算してもなお市場価格に比して低廉であることを考えれば、法一条の目的に照らし、まことに相当といわねばならない。……中略……割増賃料はあくまで割増賃料であり、公営住宅使用の対価の一種であつて、制裁金でないことは明瞭である。」

右原判決の判示するところは、要約すれば、割増賃料はあくまで割増賃料であり、明渡努力義務とは関係なく、また明渡努力義務規定は「明渡に努力する義務を課しているに過ぎない」と云うのであるが、右判断は以下のとおり公営住宅法の全体的な仕組みと運用を全く理解しない、皮相な解釈と云わざるを得ない。

(二) 現行公営住宅法は、

1 法二三条の二(収入状況の報告の請求等)の規定によつて公営住宅居住者の収入状況を把握し、

2 その収入の程度に応じて、割増家賃を徴収するとともに、法二一条の二第一項または二一条の三の規定にもとづいて明渡努力義務を課したり、明渡請求を行うことができる、

としている。

このような制度の下においては、入居者が事業主体の認定した収入金額を認めることは、その金額の如何によつては、明渡努力義務を課されたり、直ちに高額所得者として明渡請求されることになることは明らかである。

即ち、割増賃料の請求が、事業主体による居住者の一定の収入把握を前提とする以上、居住者がこれに応じて割増賃料を支払うことは、居住者にとつて事業主体の認定する収入金額を認め、その結果として認定された収入に応じて、当然に明渡努力義務を課せられたり、また高額所得者として明渡請求されることを同時に意味するのである。

(三) 原判決は、このような公営住宅法の構造にあえて目を覆い、「明渡に努力する義務を課しているに過ぎない」とか「割増賃料はあくまで割増賃料である」とか判示して、あたかも上告人をはじめ多くの居住者が割増賃料の請求に応じないことが許し難い態度であるかのように非難を加えているのであるが、公営住宅居住者において事業主体による一方的な割増賃料の請求を、一切争うことなくこれを認めることは、単に「明渡努力義務」を課されるにすぎないどころか、その認定された収入の如何によつては高額所得者として「明渡請求」されるものである以上、前記二三条の二(収入状況の報告の請求等)及び二一条の三(高額所得者明渡制度)から切り離して、割増賃料規定及び明渡努力義務規定を評価したことの誤りは明らかであろう。

原判決は、このように多くの都営住宅居住者が何故に収入報告を拒み、また割増賃料の請求に応じようとしないのかについて全く理解できていないのである。

二 収入調査・割増賃料・明渡努力義務及び高額所得者明渡制度の問題点

(一) 高額所得者明渡制度・割増賃料制度及びこれを前提とした収入報告制度は、全体として公営住宅の入居者及びその家族の有する憲法上の基本権としての居住権を侵害するものであり、違憲である。

居住権が憲法上の生存権の一種であり、住居ないし居住に関する法体系が社会法の性格を有することに鑑みると、居住権は、権利としての意味をもつためには、居住の本質に根ざした次の三つの要素、すなわち、健康で文化的な生活を営むに足りる住居の保障、居住の継続性、安定性の保障及び居住の対価の規制が必要不可欠なものというべきであるところ、これらの制度は一体として公営住宅居住者の僅か数年の収入の変動を把えて、居住の継続性・安定性を剥奪しようとするものであり、これが居住権の存在と本質的に矛盾することは言うをまたない。

(二) その最大の欠陥は、後に詳しく述べるとおり、右明渡事由を右政令並びに条例で定める収入基準にかからしめている点にある。即ち、人の収入ないし所得は本来可変的なものであり、実に種々雑多な要因により絶えず変動する。その意味では極めて不安定なものである。しかも、右収入基準は、配偶者をも含む同居親族の所得をも合算するものとされているから、その振幅は極めて大きく、不安定性は一層高まることとなる。所得のある親族が一名増加することにより、「低額所得者」からたちまちにして「高額所得者」へと変転することさえ決して稀有の事態ではない。

人は、誰でも絶えず自己の所得を増大させ、ひいては自己の生活を向上・安定させようと努力する。それが健全な市民の健全な姿である。ところが、公営住宅の入居者は、そのような努力と、居住の継続・安定の確保の矛盾・背理に悩まされ、不安におびえる。

いずれにしても、入居者の居住の継続性・安定性はこれらの制度により著しく脅かされる。居住権保障にとつて居住の安定性・継続性の確保こそが不可欠であることに照らせば、これら制度が一体として居住権を実質的に侵害するものであることは明らかである。現に「高額所得者」と認定された入居者にとつてのみではなく、事業主体によつて一方的に収入を認定される立場にある公営住宅の「すべての入居者」にとつてその居住の継続性・安定性を脅かし、居住権を実質的に侵害するものである。

三 法改正前からの居住者に対する収入調査・割増賃料・明渡努力義務及び高額所得者明渡制度の適用とその不当性

(一) 昭和二六年公布された公営住宅法(同年法律一九三号)の解説書によつても、また立法趣旨説明によつても公営住宅が入居者の定住を保障し、将来の分譲を予定した一般国民向け公共住宅であつたことが明らかであり、また当時の都の職員たちも、入居がきまつた人々に対して「新しい住宅に入れておめでとう。これは将来みなさんのものになるのだから大事に使つて下さい。住居については安心して、我が国の復興に寄与してほしい」と異口同音に説明したことも、争いのない事実である。

即ち、公営住宅法の立法の趣旨は、此様に居住者の定住を保障し、原則として一定年数経過後の分譲を予定していたのであり、上告人もまた、本件建物への永住を保障され、入居したものの一人である。

(二) ところが、国・都はその後、人口の大都市集中および土地の投機的高騰に何らの有効な抑制措置をとらず、むしろこれを助長し続けるとともに、公営住宅用地の確保を永年にわたつて怠り続けて、公営住宅行政の本旨である大量建設自体を断念し、公営住宅をあらたに建設することに代えて、従来からの居住者を犠牲とした戸数主義的・回転主義的な員数合わせに終始するようになつたのである。

(三) 具体的には、昭和三四年法改正によつて、①収入超過者明渡努力義務制度が新設されるとともに、②公営住宅の分譲は「特別の事由あるとき」に限られ、③さらに昭和四四年法改正においては、あらたに高額所得者明渡制度と建替事業に伴う明渡制度が新設されるに至つた。このようにして定住と分譲を保障されて入居した従前からの旧い入居者らは、こうした国および都の行政的怠慢の結果、分譲への期待を裏切られたばかりか、今や居住権のまさに中核である居住の安定性すらも脅やかされるという誠に苛酷な仕打ちを受けるに至つている。

(四) このような旧くからの居住者(当初の公営住宅法の立法趣旨に則つて入居し、居住してきた人々)に対して、都が特別の配慮を行うべきことは、都議会自由民主党都議団有志(自民党都議の大多数である五〇名)による「東京都と都営住宅居住者との紛争解決・ならびに行政改革に資する提言」においてもとくに強調されているところである。

「昭和二六年に制定された公営住宅法は、立法当時入居者に対し、将来当該住宅を分譲し、その定住をはかることを予定しており、また当局も入居者らに対して、その旨の説明を繰返し行つていたところである。そのため、入居者らはそれぞれの住宅の分譲・定住を固く信じていたところ、昭和三四年同四四年の改正によつて、分譲が原則的に許されなくなり、さらには収入超過者の明渡義務・高額所得者明渡制度が新設されたことにより、ついには居住の安定すらも根底からおびやかされるに至つている。最近はこれら居住者の当局に対する不信感も抜き難いものとなつている。……」と。

(五) 以上、収入調査・割増賃料・明渡努力義務及び高額所得者明渡制度が一体として居住権を侵害するものであることは、すでに指摘したとおりであるが、仮にこれがただちに違法とは云えないとしても、右のように法改正以前から永く(その人生の大半)居住を継続してきた上告人らに対して、居住の安定性を害うこれらの制度を画一的かつ何らの措置も行わずに適用することは、少くとも信義則あるいは確約の法理に反するものとして許されないというべきである。

四 上告人に対する割増賃料請求の不当性

(一) 原判決は、

「原本の存在並びに成立に争いのない乙第一五号証及び原審証人太田裕司の証言によれば、被控訴人(上告人)の昭和四〇年中の給与収入総額は五〇万五〇〇一円以上七八万六六六六円以下であつたことが認められ、……同年一一月一日以降一か月二一〇円の割合による割増賃料債務を控訴人に対して負担するに至つたというべきであり、」

と判示するが、以下のとおり右判断は誤りである。

(二) まず第一に、上告人の給与総額が「五〇万五〇〇一円以上七八万六六六六円以下」であつたことが認められるというのであるが、法二一条の二は「公営住宅の入居者は、……政令で定める基準をこえる収入のあるときは……」と定め、ここにいう「収入」とは公営住宅施行令の一条三号によつて明らかなとおり「……の例に準じて算出した所得全額を一二で除した額」であり、割増家賃請求の要件である「収入」とは右政令による具体的金額でなければならないことが明らかである。

被上告人において、これらの主張・立証を行わず、原判決が慢ママ然と「昭和四〇年中の給与収入総額は五〇万五〇〇一円以上七八万六六六六円以下であつたと認められる」としたことの誤りは明らかである。

(三) 証人太田裕司の証言からも明らかなとおり、同人は上告人の昭和四〇年中の収入を知りうる立場になく、成立について争いのある甲第八号証の報告書にもとづいて証言しているにすぎないし、甲第八号証の作成経緯もその内容の正確性も全く不明である。さらに甲第八号証には、報告者佐藤芳雄の「昭和四一年九月頃、東京都練馬区住民税課税台帳の閲覧をしたところ……五〇五、〇〇一円以上七八万六六六六円以下であることが判明した」旨の記載があるが、被上告人による居住者の収入の認定は、都条例一九条の五に「知事は、前条の報告その他の資料に基づき、使用者の収入の額を認定し、使用者にその認定した額……その他必要な事項を通知する」とされているとおり、具体的な金額を認定し、これに基づいて割増賃料を請求することになつているにもかかわらず、このように右報告者が具体的金額を報告できず、慢ママ然と「○○円以上、○○円以下」などとしているのは、とりもなおさず被上告人において、割増賃料の請求の要件事実である上告人の「収入」について主張・立証ができなかつたことを意味する。

結局原判決も、条例の適用がある旨を同義反復的に判示したにすぎず、要件事実(具体的な収入金額)そのものの認定を欠いたものとなつており、原判決には理由不備の違法がある。

(四) さらに、右太田証人及び甲第八号証によれば、被上告人には上告人の収入を把握するため課税台帳を閲覧したと主張するのであるが、もし右が事実とすればこれも違法といわざるを得ない。

1 公営住宅法第二三条の二は「事業主体の長は、……第二一条の二第二項の規定による割増賃料の徴収、第二一条の三第一項の規定による明渡しの請求……必要があると認めるときは、公営住宅の入居者の収入の状況について」公官署に必要な書類を閲覧させること……を求めることができる旨規定する。本制度は昭和三四年法改正によつてあらたに新設されたものであるが、被上告人は本制度について公営住宅居住者らに対して、

「収入報告書を提出しない場合にこそ明渡の問題が生ずることはあつても、収入報告書を提出したから居住権がなくなるということは全く考えられないことです。」

と宣言していた。

しかし本制度が単に割増家賃の徴収のみならず、四四年法改正で設けられた高額所得者明渡制度などと一体となつて居住者の収入を理由とする明渡制度に直結し、課税台帳を閲覧されたり、割増賃料を支払うことによつて「居住権がなくなるということは十分に考えられること」はすでに述べたとおりである。

2 ところで、大阪高裁昭和四五年一月二九日判決は、公営住宅法二三条の二の規定により「官公署に必要な書類を閲覧させ」ることを求めることができるのは、「入居者が割増賃料を徴収される以外に閲覧によつて特別の不利益をうけることがないような場合」であるとしているが、その点からも課税台帳の閲覧の結果把握された収入の如何により高額所得者としてただちに明渡請求をうけるような現行制度(法二一条の三)のもとでは、右閲覧制度はその限界を超え、明らかに地方税法二二条に違反するものといわざるを得ない。

3 元来、国民は憲法三〇条により納税の義務を負う関係上、所得税法・地方税法は国民に対し収入状況について報告書を提出する義務を負わせるとともに、国・地方公共団体にこれを求める権限を付与したのであるが、これと比べ基本的には私法上の賃貸借における賃貸人の地位にすぎない事業主体に単に割増賃料徴収の目的を超えて居住者の収入状況について報告を求める被上告人の運用は、全く憲法上の根拠を欠いた暴挙というべきなのである。

第二、借家法七条の適用

一 原判決は、

「同法七条二項は、賃貸人の賃料増額請求権の行使がしばしば過大であり、賃借人は右行使の結果たる賃料増額の有無又はその数額の正当性を裁判確定前に正確に知ることが事実上不可能であるにもかかわらず、右結果の発生は右請求権行使の時点に遡るとされ、また金銭債務の不履行は故意過失を要件としないため、裁判確定後にはじめて知りえた正当な賃料額による不足分を提供しても賃料不払による賃貸借契約の解除を防止しえないという不合理な危険から賃借人を解放するために、昭和四一年法律第九三号によつて賃料増減請求権と同一条下に新設された規定であるから、元来同条一項の増額請求権行使の結果につき、当事者間に争いのあるときにのみ適用されるものと解すべきである。……中略……そして賃料増額請求権の制度がもつぱら賃貸借当事者間の公平を図るためのものであるのに対し、割増賃料の制度は、法一条の掲げる目的に副い、公営住宅既入居者とそれ以外の住宅困窮者間の公平、あるいは社会全体の公平を図ろうとするもので、両者はまつたく異質の制度である。

と判示するが、これは公営住宅の使用関係が、私法上の賃貸借であり、公営住宅の使用対価たる公営住宅家賃も私法上の賃料と変わらないという判例・通説に反する独自の見解である。

割増賃料も公営住宅使用の対価であり、家賃と性質を異にするものではない。割増賃料の請求も本来の契約内容である家賃の一方的な変更(形成権の行使)にほかならず、借家法七条による家賃増額の請求に該当するものであり、ただその要件、手続、賃料増額の限度について公営住宅法に定めがあるに過ぎない。

第一審判決のほか、名古屋地裁昭四一・六・一八(判例時報四七一号二三頁)、名古屋地裁昭四二・三・一五(判例時報四七九号一九頁)、釧路地裁昭四〇・一二・二八(行裁例集一六巻一二号二〇七六頁)、金沢地裁昭四〇・一一・一二(行裁例集一六巻一一号一八七四頁)など。

従つて居住者は、割増賃料の請求に対しても、これが果してその要件を充たし、所定の手続を適法に経由し、また法の定める限度において行われたものであるか否か等々について、当該請求が無効であることを前提として争うことができると解されるのである(昭和三八年一一月一九日「行政事件担当裁判官会同――行政裁判資料二九号九二頁)。

二 第一において述べたとおり、割増賃料の請求またはその前提たる課税台帳の閲覧が違憲または無効であるとの疑いがあり、また上告人に対する請求そのものについて限つて云つても、上告人の収入の具体的金額すら明らかにされておらず(課税台帳を閲覧したはずであるのに)、さらには扶養家族の認定基準時期や「収入の意義(前年の一月一日から一二月三一日までか否か)をめぐる争い、被上告人の計算の誤りなど右制度を前提としてもなお、被上告人の割増賃料の請求が個別的にもはたして正当であるか否か、甚だこころもとないのが実情である。

三 公営住宅法及びこれに基づく命令・条例が入居者に対して効力を有することは、それぞれが適法である限りにおいてはそのとおりである。

しかしこのことは、事業主体の具体的な法律行為がつねに有効であることを意味しないこともあらためていうまでもないことである。実際に入居者がこれを争う必要を生ずる場合も少なくない。事業主体の割増賃料の請求についても、収入超過者でないものに対して請求しても無効であり、また限度額を超えて請求した場合なども同様である。

原判決の判示が、居住者は割増賃料の決定が無効であることを前提に、具体的な請求に対して争うことができないという意味であるとすれば、結局それは公営住宅の家賃変更を事業主体による行政処分であるとしていることにほかならず、その誤りもまたすでに述べたところから明らかであろう。

以上、原判決は、割増家賃制度が合憲であることを前提にしているのみか、事業主体が誤つた収入認定にもとづく不当な割増賃料の請求をしないことを前提としているが、そもそも割増賃料の前提たる「収入認定」それ自体が、事業主体とりわけ被上告人では正確な作業を到底期待し得ないものなのである。

四 割増賃料の支払義務の存否及びその額につき多面的に争う余地が存することについて

(一) 原判決の判断

原判決は、一般借家の場合は

「賃料増額の有無又はその数額の正当性を裁判確定前に正確に知ることが事実上不可能である」のに比し、公営住宅の場合は

「割増賃料徴収の要件は、公営住宅入居後三年以上を経過したこと及び入居者の収入が一定の収入基準を超え、割増賃料規定に該当するに至つたことであつて、入居者にとつて確知しがたい要素は含まれていない」

「割増賃料徴収の適否は入居者にとつておのずから明らかなはず」

であるから、「増額請求権行使の結果につき、当事者間に争いのあるときにのみ適用される」はずの借家法七条二項の適用の余地がないという。つまり、割増賃料の支払義務の存否及びその額については、機械的・自動的に決定されるものであり、争う余地がないということを言いたいようである。

これは、甚だしい思い違いであり、余りに性急な独断というほかはない。このように乱暴な理論で借家法七条二項の適用を排除し、被上告人の請求を認容するなどというのは、まさしく言語道断である。

(二) 争う余地と必要性の存在

割増賃料債務の存否及びその数額については、実に多面的な観点・角度からこれを争う余地が現実に存する。即ち

① まず、この割増賃料制度が、前述したように、違憲の疑いが濃いこと

② 仮にこの割増賃料制度が一応合憲であるとの前提を置いたとしても、この制度に関する公住法及び政令等の規定の解釈・適用につき、余りに不明確な点が多過ぎるので、入居者側からはさまざまにこれを争う余地と必要があること

③ 被上告人東京都の場合は、右②の点について確固たる解釈基準を有しておらず、制度の運用が相当に混乱しているのが実情であること

④ 同様に被上告人東京都の場合は、割増賃料算定のための収入計算を「収入認定」と呼んでいるが、その「収入認定」の際、扶養親族の数、所得合算の対象となる同居親族の数等の把握を誤るなど、杜撰な運用が目立つこと

⑤ 右②及び③(場合によつては④も)の混乱の原因を堀ママり下げていくと、この割増賃料制度そのものが、そもそも、到底正常に機能することを期待出来ない代物であることが判明すること。従つてこの面から逆に堀ママり下げていつても右①の問題が改めて検討の対象になりうること

等々を指摘することができる。

(三) 予測の絶対的不可能

右の如き事情の存在は、居住者側において事業主体の請求する割増賃料につき争う余地と必要性が存することを意味するのみではない。右②、③の点は、後に詳述するように、割増賃料の支払義務及びその額につき、居住者がこれを的確に予測することは全く不可能であることを示している。たとえばそもそも割増賃料徴収の基礎となる「収入」とは、いつたいいつからいつまでの期間の収入を指すのかということすら全く明らかでない。このようにこの制度の最も初歩的ないし基礎的な点で解釈上重大な疑義がある以上、(一般借家の場合のように)「事実上不可能である」というにとどまらず、そもそも「法律上、制度上不可能である」というべきなのである。

(四) 解釈上の疑義の存在

1 公住法一三条三項の限度額との関連について

この点は、「解釈上の」疑義があるというより、実質的には法の適用の段階で争う余地の存することを示すものであるが、便宜上ここに併列して掲げることとする。

公住法二一条の二第二項は、法一三条三項に規定する月額の0.4倍または0.8倍に相当する額以下で割増賃料を徴収することができると定める。この公住法一三条三項は家賃の変更限度額に関する定めであるが、「修繕費」「地代相当額」の意義ないしその具体的適用についてさまざまに論点の存するところである(東京地方裁判所昭和五三年(ワ)第五三一九号事件は、これらの点に審理のほとんどを費しているほどである)。

2 「過去一年間」の意義について

公住法二一条の二第二項は、入居者の「収入」に応じて割増賃料を微収すべきものとするが、公住法自身はその「収入」の意義について特段の定義規定を置いていない。「収入」の語の意義については公住法施行令一条三号に定義がある。そこでは、入居者及び同居の親族の「過去一年間」における所得金額を基礎に算定すべきものとしている。

ところで「過去一年間」とはいつたい何時から何時までの一年間をいうのか、全く明らかでない。この点については、今のところ、一応ふたつの解釈が対立している(ふたつに大別されるということであつて、修正的解釈をあわせれば、さまざまに別かれ得る)。ひとつは、右施行令の規定が「所得税法の例に準じて」と定めていることから、「過去一年間」とは「前年の一月一日から一二月三一日まで」をいうものと解する立場である(被上告人の制定する都営住宅条例施行規則二一条一項が「毎年六月三〇日までに」収入報告書を提出すべきものとしているのは、そのような解釈を前提にした運用というべきであろう)。これに対して、被上告人東京都は、全く異なる解釈をとるようである(東京地方裁判所昭和五二年(ワ)第六〇七一号高額所得者明渡請求事件では、東京都は現に右と異なる解釈を主張し、同事件で証人として出頭した都住宅局職員はその主張に沿う運用がなされている旨証言している)。その解釈とは、毎年一定の日(時)を「収入認定基準日」または「収入認定基準時」とし、「過去一年間」とはその「収入認定基準日(時)から遡つた過去一年間」とする、というものである(もつとも本件においても被上告人がこのような主張をなすのかどうかは必ずしも明らかではない。何故なら、かかる主張は事件によつて御都合主義的に使い分けられた便宜的なものではないかという疑いがあるからである)。

ところで、後者の解釈によつた場合、「収入認定基準時から遡る過去一年間」の収入を実際にはどのようにして把握することができるか、という重大な疑問が湧いてくる。そのため「(被上告人東京都における)収入認定事務の具体的取扱いにあたつては、原則として公的証明のとれる前年の収入によつて収入認定をしている」などという主張が現になされるに至つているが、ここでは「事務の具体的取扱い」によつて法令解釈上の原則と例外が完全に転倒するという大混乱が生じているのである。

3 「同居親族」について

前記施行令一条三号は、公住法一七条一号に規定する同居の親族についても「過去一年間」における所得金額を合算すべきものとしている。「同居親族」であるか否か争いとなる場合がありうる(たとえば「事実上婚姻関係と同様の事情にある」か否か、「婚姻の予約者」か否かなど)ことをここでも指摘しておきたい。

しかし、解釈上の疑義は、もつと基本的なところで生ずる。前述のように「過去一年間」の意義が不明であることは、とりもなおさず「当該同居親族の過去一年間における所得」の意義が不明であることを意味するが、それにとどまらず、更に「同居親族」であるか否かを判定する基準時はいつかという疑問が生じてくるのである。この点についても、「過去一年間」を「前年の一月一日から一二月三一日までの一年間」と解する立場からは、その一年間を通じて同居親族の所得があつたか否かを端的に問題にすれば足りると思われる。これに対し、「過去一年間」を「収入認定基準日から遡る過去一年間」と解する立場にあつても、同様に右の一年間を通じた同居親族の所得の有無を問題にすれば足りるとも考えられるが、実際には問題はそれほど単純ではない。そもそも右の期間の同居親族の所得を実際に把握することが技術的に不可能ではないかとの点はさておくとして、「収入認定基準日」なる概念を前提とする立場は、後に詳述するように「前年の所得があつたとしても、収入認定行為時において、退職していたり事業を廃止していたりして、収入の見込みがない者に対してはその者の収入認定は、収入額〇円と認定する」としており、「収入認定基準時」における「収入状態」を問題としているからである(後記11参照)。つまり、「(退職等により)収入の見込みがない者」が「収入額〇円と認定」されるならば、「(世帯分離等により)合算すべき同居親族の収入の見込みがない」場合には、同様の趣旨から合算を否定されるべきではないかと考えられるからである。従つて、所得合算の対象となる「同居親族」の有無は「収入認定基準日(時)」をもつて判断されることとなる。

いうまでもなく、有所得者たる同居親族一名の変動により「収入」は激増または激減することは明らかであり、婚姻、就学、就職その他さまざまの要因により「同居」に関する異動がしばしば起きることは明らかである以上、右のように解釈がわかれていることは由々しきことである(前述したところからしても、三通りの解釈が成立することはみやすい道理である)。

4 「控除対象配偶者」「扶養親族」等について

前記施行令一条三号は、「控除対象配偶者」「扶養親族」等に該当する者がある場合については、「収入」の算定にあたつて、所得金額からそれら該当者の数に応じて一定額を控除すべきものとしている。この点についても、前同様、解釈上重大な疑義が生じている。

即ち、「過去一年間」を「前年の一月一日から一二月三一日まで」と解する立場は、前述のように施行令の規定が「所得税法の例に準じて」所得金額を算出すべきものとしていることに鑑み、所得税法八五条三項の定めに従い、「控除対象配偶者」「扶養親族」に該当するかどうかの判定は、「その年の一二月三一日の現況による」のである。

これに対し、「過去一年間」を「収入認定基準日から遡る過去一年間」と解する立場からは、「扶養親族数の認定も収入認定の計算上行うものであるから収入認定基準時に扶養親族であるか否かの判定を行うこととなる」との解釈が主張されており、「収入認定行為時に扶養親族が増加している場合には、その増加を、就職等によつて扶養親族でなくなつている場合はそのことを、それぞれ収入認定行為時に判断して、扶養親族の認定を行うものである」とする。

後者の解釈による場合は、膨大な数に及ぶ居住者のそれぞれにつき「収入認定基準日(時)」における「控除対象配偶者」「扶養親族」の有無及び数を把握しなければならないが、そのようなことは現実には不可能ではないかとも考えられる。そこで前述したように、「収入認定事務の具体的取扱いにあたつては、原則として公的証明のとれる前年の収入によつて収入認定している」「実務上は右時点では前年の収入によるほか公的証明書がとれないため通常の収入認定は収入認定基準時の前年一年間の収入をもつて収入認定基準時から遡つた過去一年間の収入とみなして認定している」といつたような便宜的説明がなされることになる。しかしながら、そのように「みなし」ながら、「控除対象配偶者」「扶養親族」の有無の判定時期を前記「収入認定基準日(時)」であると解すると、「収入」と「控除対象配偶者」「扶養親族」とを異なる時点で判定することになつて著しく不合理である(前掲別件では、現に「被告Yの昭和四九年度の扶養親族数は、前記のとおり昭和四九年一〇月二五日に認定したものであるが、二女Bは昭和四九年四月一日から就職しており、昭和四九年一〇月二五日現在給与所得者であつたので扶養親族とは認められないのである」との主張が同事件の原告である被上告人東京都側より示されている)。

5 「給与所得者が就職後一年を経過しない場合等」について

前記施行令一条三号は、「給与所得者が就職後一年を経過しない場合等その額をその者の継続的収入とすることが著しく不適当である場合においては、事業主体が建設大臣の定めるところにより認定した額」をもつて「収入」を算出すべきものとしている。

ところで、右「建設大臣の定め」については、二度にわたつて改定がなされているため、その解釈に疑義が生じている。

即ち、昭和三四年一〇月一九日住発第三〇六号建設省住宅局長通知は、

「給与所得者が就職後一年を経過しない場合の給与所得金額は、就職先より支払われた給与所得金額の合計額を就職した月数で除した額とする」

と定めていたが、昭和三六年三月六日住発第五六号建設省住宅局長通知により

「給与所得については、就職後の収入により、所得税法第二章第一節の例に準じて算出した金額を、就職後の月数で除した額とする」

と改められ、更に昭和五二年一月二八日建設省住総発第一五号建設省住宅局長通知によれば

「給与所得については、就職後の収入を就職後の月数で除した額に一二を乗じた額により、所得税法第二編第二章第一節から第三節までの例に準じて算出した所得金額とする」

と改められた。就職後一年を経過しない場合の給与所得者につき、給与所得控除をなすか否か、なすとすればどのような計算方法でなすかにつき、右「通知」では取扱いを改訂しているわけであるが、それぞれの「通知」が従前の「通知」をどのように改訂したかの解釈がわかれている。所得税法は給与所得控除の額を「年間所得」額を基準として定めており、「月間所得」額を基準として定めていないため、公住法施行令が所得の「月割額」を算出すべく「就職後一年を経過しない場合の給与所得者」を取扱うについては、当然にこのような難問に逢着するわけである。

右解釈上の疑義は直接には「建設大臣の定め」をめぐつて生じているものであるが、このような疑義が生ずるのは、そもそも前述したように「過去一年間」の意義が不明確であることと深い関連がある。即ち「就職後一年を経過しない」か否かを何時を基準にして判断するかが不明確なのである。

「過去一年間」を「前年の一月一日から一二月三一日まで」と解する立場からは、その期間内における就職期間が一年未満であるか否かを判断すれば足りることになる。

これに対し、「過去一年間」を「収入認定基準日(時)から遡つた過去一年間」と解する立場からは、その期間内における就職期間を問題にすることとなる。しかし、この立場は、他方で「実務上は収入基準日時点では前年の収入によるほか公的証明書がとれないため通常の収入認定は収入認定基準時の前年一年間の収入をもつて収入認定基準時から遡つた過去一年間の収入とみなして認定しているものであるが、前記の場合のように前年の収入発生期間が一年に満たない場合でその後も継続して収入を得ている場合には、前年の実収入に限定することは不合理であるために、収入認定の特例の計算を行う」として前記「通知」を引用しているので、「過去一年間」の意義を「収入認定基準日(時)から遡つた過去一年間」と解することとかかわりなく、「前年」即ち「前年の一月一日から一二月一三日まで」の間の就職期間が一年未満であるか否かを判断すべきものとしているようにも思える。

いずれにしても、結局、問題は、右「通知」の解釈以上に前記施行令一条三号の解釈に帰着することは明らかである。

6 「所得税法の例に準じて」の意義について

前記施行令一条三号は、「所得税法第二編第二章第一節から第三節までの例に準じて算出した所得金額」と規定し、「控除対象配偶者」「扶養親族」等の定義についても所得税法の規定を援用している。そこで「収入」計算にあたり、どの範囲で「所得税法の例に準」ずるかが問題となる。「控除対象配偶者」「扶養親族」等の判定につき、所得税法八五条三項の準用があるか否か対立があると前記4で述べたが、それだけにとどまるものではない。

そもそも、公住法施行令一条三号の「収入」概念は、所得税法の「所得」概念に基本的に依存しているのか、それとも所得税法の所得計算方法を技術的に借用しているに過ぎないかが問題となる。前記「収入認定基準日(時)」なる概念を提唱する立場からは、たとえば「法施行令第一条第三号は入居者等の過去一年間の収入の算定にあたつては、所得税法の例に準じて算出した所得金額を用いて収入を計算するものと規定しており、右規定からも明らかなように所得税法によつて算出した所得金額を用いて収入を計算すると規定しているのではないのである」と主張される。即ち、公住法の「収入」概念と所得税法の「所得」概念とは異質なものだというわけである。

いずれの立場をとるかによつて前記施行令一条三号にいう「過去一年間」の意義の解釈も異なるものとなるのは言うまでもない。前記施行令の援用する所得税法第二編第二節「各種所得の金額の計算」の規定はいずれも「その年中の」「その年分の」と規定しているから、この点でも「所得税法の例に準じて」いるとすれば、「過去一年間」とは「前年の一月一日から一二月三一日まで」ということになるからである。

7 所得税法の改正の場合の措置について

所得税法は経済事情の変動その他の事由からしばしば改正される。その際、通常は、その附則において、前年の収入については前年に施行されている改正前の法を適用する旨明記されている。

「過去一年間」を「前年の一月一日から一二月三一日まで」と解し、かつ、所得税法の改正の場合の附則の適用についても「所得税法の例に準ずる」ものと解する立場からは、特段の解釈上の疑義は生じない。

しかし、「過去一年間」を収入認定基準日(時)から遡つた過去一年間」と解する立場からは、「収入認定基準時における所得税法本則の定めにしたがつて計算を行う」「前年の収入の算定根拠となつた所得税法が認定基準時までに改正されている場合は新法による」との解釈が主張されている。

後者の立場にあつては、しばしば指摘してきたように「実務上は前年一年間の収入をもつて収入認定基準時から遡つた過去一年間の収入とみなして認定している」というのであるから、実際に収入の把握されている期間と、その期間の所得に適用されるべき所得税法とが乖離するという重大な矛盾を生ずることになる。

8 申告所得か実際の所得か、について

所得税法の申告所得と実際の収入が異なる例はしばしばみうけられる。通常は申告所得の方が低額である場合が多いとも考えられるが、逆の場合もないわけではない。このような場合、居住者側において申告所得より実際の収入がより低額であることを主張・立証して割増賃料の支払義務ないしその額について争うことが許されるか、問題となる。高額所得者制度に関連してではあるが、実際に争われている例がある。

9 「収入認定基準日(時)」なる概念は制度上予定されているか、について

前記施行令一条三号の「過去一年間」の意義が不明確であることが、これまで述べてきたようなさまざまな解釈上の疑義を生じさせるひとつの重大な要因となつていることは否定できない。

ところで、公住法は、はたして「収入認定基準日(時)」なる概念を予定しているのであろうか。なるほど右施行令の規定が「過去一年間」の語を用いていることはある一定の時点から遡つた一年間という概念を想起させるようにもみえる。もしそうだとすると、その「収入認定基準日(時)」が何日(時)であるか、明瞭に規定されていなければならないはずである。

この点、「収入認定基準日(時)」概念をとる被上告人東京都の場合にあつては、次のような説明がなされている。

「収入認定行為は、その収入の認定をする年の一一月三〇日現在引き続き三年以上当該都営住宅を使用している者で(条例施行規則第二一条)収入基準を超過している者に対して一二月から付加使用料を徴収するためになされる(規則二〇条)。右のことから、収入認定行為の確定日は、一一月三〇日となる。

ところで、条例一九条の五第二項によると、収入認定通知をうけた日から三〇日間の意見申出期間を定めているから条例は一一月三〇日より三〇日前すなわち一〇月三一日に収入認定通知が使用者に到達する必要があり、一〇月三一日より到達に要する日数を差し引いた日を収入認定基準日と定めていると解される。」

しかし、右の如き解釈は、余りに多くの問題点を孕み過ぎている。即ち、「(毎年)一〇月三一日より到達に要する日数を差し引いた日」などというのであつては、年により、人(居住者)により、郵便事情により、「収入認定基準日(時)」がさまざまに区々・不安定になることを帰結するものであり、到底容認できない。そもそも収入把握のための単なる事務手続を定めたに過ぎない条例施行規則の規定の解釈をもつて「収入」計算に直接に影響する「収入認定基準日(時)」を確定する機能をもたせるなどというのは余りの暴論というべきである。

被上告人東京都は、一方では、事業主体によつて右のような「収入認定基準日(時)」が異なることを認めているようであるが、そのことはとりも直さず、公住法ないし同法施行令をもつてしては「収入認定基準日(時)」を確定することが出来ないことを意味する。そうすると、そもそも、「収入認定基準日(時)」なる概念が公住法上予定されているのかどうか、根本的に疑問となるのである。

10 割増賃料はいつからいつまで徴収できるかについて

ところで、このような疑義が生ずるのは、そもそも割増賃料をいつたいいかなる範囲の期間内で徴収することができるのか、全く明瞭でないからである。

公住法二一条の第一、二項によれば、「当該公営住宅に引き続き三年以上入居している場合において公営住宅の種類に応じて政令で定める基進をこえる収入のあるとき」に明渡努力義務が発生し、割増賃料支払義務が発生する。では、その義務の発生している期間はいつからいつまでか。右によれば、基準をこえる収入があることとなつたときから、収入が右基準を下廻ることとなつたときまで、ということになる。ところで前記施行令一条三号は、「過去一年間」の所得をもとに「十二で除した額」を算出する。つまり、「月割所得」「月間収入」を「収入」と呼んでいるわけである。そうすると、公住法二一条の第一、二項にいう「政令で定める基準をこえる収入のあるとき」とは、「政令で定める月間の収入基準をこえる月間収入のあるとき」を意味することになる。従つて、「月間所得」の状態によつて明渡努力義務や割増賃料支払義務が規定されることになるから、かかる義務の発生の有無は「月間の収入」に着目し、月ごとに判断されることになる。そして前記施行令一条三号の規定は、毎月の月間収入を把握するにあたつて、その時点から遡る「過去一年間」の所得を基礎に「十二で除した額」を算出し、「月間の収入」を算定する旨規定しているものと解されることになる。

してみると、本件原判決が、上告人に一定の範囲の月額収入があつたと認定しながら、その実年間所得を問題にし、毎月別の収入算定を怠り、漫然と昭和四一年一一月一日以降一か月金二一〇円の割合による割増賃料支払義務を負担するに至つたと断じているのは、根本的に誤つていることとなる。

11 「収入」とは何か――「年間の収入」か「月間の収入」か、それとも「収入の状態」か――

ここまで検討を重ねてくると、問題の核心が基本的には公住法上の「収入」概念にかかわつてくることが判明しよう。

公住法上、「収入」は「入居者資格」にも関係する。公住法一七条二号は「政令で定める基準の収入のある」ことを入居の要件としている。公住法施行令五条各号はその「収入基準」を定めるが、「入居の申込みをした日において」一定の範囲内の収入額のあることが要求されている。ところで、他方前記施行令一条三号は「過去一年間」の所得をもとに「十二で除した額」を算出すべきものとしていることは前述のとおりである。してみると、ここでは、「入居の申込みをした日」を基準とし、その日から遡つた「過去一年間」の所得をもとに「月割額」を「収入」として算出すべきことになろう。

つまり、ここでいう「収入」とは「月割額」であるという意味においては「月間の収入」ではあるが、しかしそれは通常用いられる意味での「月間の収入」を意味しない(「入居の申込みをした日」の属する月の収入額でないことに注意)ことになる。

そもそも、公住法は賃料が本来「月額」賃料として定められることを前提にしており(法一二条一項、一三条三項、一二条の三第一項、二二条一項二号)、割増賃料もまた「月額」として定めるべきものとされている(法二一条の二第二項)。これに対応して「収入」も「月割額」で定められ、「収入基準」も全て「月額」で定められている(施行令一条三号、五条各号、六条の二各号、六条の三各号)。従つて、「収入」が基本的に「月額」所得であることが公住法上当然の前提とされているように思われる。

しかし、はたして、右のような意味での「月額の所得」を現実に適正に把握することができるのであろうか。前述の如き「前年の収入をもつて過去一年間の収入とみなして収入認定をしている」などという便法によつてはこの問題は解決されない。単なる事務処理上の取扱いをもつて法令の解釈を根本的に変更するなどということが許されるわけがないからである。

そもそも、わが国の所得税法は前述のように「一月一日から一二月三一日まで」の「年間所得」を把握すべきものとしている。然るに、これに対し、公住法令が「月額」収入を前提にして規定され、かつその際「年間の所得」を問題にしながらもこれを「十二で除す」ことにより結局「月額」収入を把握すべきこととしている点に、混乱の基本的原因があろう。

ところで、前述したように、入居資格に関連する「収入基準」でいう「収入」が、「月割額」ではあつてもある特定の日を基準として算定されたものであり、その意味では純理論的には日々刻々と変化するものである以上、「収入」とは実は「収入の状態」を意味するとも考えられる。

しかし、そのことは、毎年一回の「収入認定基準日」を設けたうえ、「例えば、前年の所得があつたとしても、収入認定行為時において、退職していたり事業を廃止していたりして、収入の見込みがない者に対してはその者の収入認定は、収入額〇円と認定するものである。」とする被上告人東京都の取扱いが、文字通り「収入の状態」を問題にしてはいても、右でいう「収入の状態」とは似て非なるものといえよう。

12 まとめ

以上述べたところから明らかなように、「収入」超過が割増賃料や明渡努力義務、ひいては「高額所得者」明渡制度等の居住者の重大な不利益と結びついているにもかかわらず、その基本的前提たる「収入」概念及び「収入計算方法」等につき余りに多くの解釈上の疑義が生ずることは由々しきことといわねばならぬ。

このような疑義や混乱が生じるのは、これまでつぶさに検討してきたように、これらの制度が立法技術的にみて拙劣(というより稚拙)であり、到底正常に機能することが期待できない代物であることを意味している。これまで累々述べてきたような論点は、立法経過を丹念に検討しても全く明らかにならず、これらの論点に触れた解説書とてひとつだに存在しない。判例も存在しない。現在係属中の訴訟でようよう対立点が明らかになつてきているに過ぎない。

居住者らがこの制度に危惧を感じ、強く反対してきたのも誠にむべなるかなである。かかる拙劣なる立法によつて居住者に重大な不利益を負わすというのであつては、本制度の違憲の疑いはますます強まつたとみるべきであろう。

ましてや、原判決の如く、割増賃料の支払義務や額につき争う余地のないものと断ずるのが、いかに性急な、というより無暴なものであるか、明白になつたというべきであろう。

(五) 「事実」関係についての争いの存在

割増賃料の支払義務の存否及びその額について争う余地と必要性が存するのは、前述したような解釈上の争いが存することのみによるのではない。改めて言うまでもないことであるが、関係法令適用の前提たる「事実」関係につき争いが生ずる余地のあることは、一般の場合と何ら異なるところはない。

所得金額、同居親族の有無及びその数ないしその所得金額、控除対象配偶者や扶養親族の有無及びその数、等について事業主体が誤つた判断をなして割増賃料を請求してくる可能性はおおいにある。また収入の計算を誤るなどということもありうるわけである。

現に被上告人東京都においては、事業関係の把握が誤つていたり、計算を誤るなど、杜撰な運用が目立つ。そのため、現実にそれらの点が訴訟において争われている。

(六) まとめ

いずれにしても、割増賃料の支払義務の存否及び額につき、これを居住者が的確に予測するなどというのはおよそ不可能であり、事業主体の請求に対しこれを居住者が争う余地と必要性が多面的に存するのは言うまでもないことである。

従つて、借家法七条二項の適用を排斥した原判決に根本的な誤りがあることは明らかである。

第三 上告人に割増賃料の支払義務があるとした点の誤り

一 原判決が具体的な「収入額」についての主張・立証がないのに割増賃料の支払義務を認定した点において、すでに重大な違法があることは、すでに指摘したところである。

二 原判決の誤りは、それに尽きるものではない。より根本的な点で法令の解釈・適用を誤つている。

原判決は次のように述べている

「控訴人が昭和四一年一〇月二二日被控訴人に対し同年一一月一日以降一か月につき二一〇円の割増賃料を徴収する旨を通知し、右通知は同年一〇月二二日ころ被控訴人に到達した」

「被控訴人の昭和四〇年中の給与収入総額は五〇万五〇〇一円以上七八万六六六六円以下であつた」

「同年中妻及び未成年の子二人があつた」

そして、施行令一条三号(昭和四二年政令第一〇五号による改正前のもの)の計算に従うと、被控訴人は同年中に月額二万五〇〇〇円を超え、四万五〇〇〇円以下の収入があつたこととなり、従つて控訴人は昭和四一年一〇月二二日の時点で被控訴人に対し、割増賃料規定により、家賃額の0.2を上限として割増賃料を徴収する権限を有していたというべきところ、その限度内において控訴人は前記のように割増賃料徴収の通知をなし、被控訴人に到達したのであるから、被控訴人は同年一一月一日以降一か月二一〇円の割合による割増賃料債務を控訴人に対して負担するに至つたというべきであり、条例一一条三項によれば右は毎月末日までにその月分を納付すべきものとされている。」

右の判断は、結論に至る過程の論理の運びが極めて杜撰なものであることは、前記第二・四・(四)・10ほかにおいて詳述したところから容易に理解できるであろう。

割増賃料の支払義務及びその額については、本来「月別」に認定されなければならず、その義務の存続期間についても「月別」の認定を経たうえ「月別」に判断されなければならない。「昭和四〇年中の給与収入総額」「同年中の」家族構成を問題にしつつ、なにゆえ「昭和四一年一〇月二二日の時点で」の、かつ「同年一一月一日以降」の割増賃料支払義務を確定することができるのか。このような判断は、施行令一条三号のいかなる解釈からも許されはしないのである。

三 従つて、原判決が上告人に割増賃料の支払義務があるものと速断した点は明らかに誤つており、右債務の存在を前提に本件賃貸借契約の解除を有効と認めた点は(控訴審の審理経過からして上告人にとつてそれが全くの不意打ちであつた点はさておくとして)、明白な誤りであり、速かに是正されるべきである。

第二点 増築と明渡請求について

第一、信頼関係理論の適用と判断の遺脱

一、原判決は、本件増築については信頼関係を破壊するに足りないと認めるべき特段の事情があるとの上告人の主張について、次のように判示した。

「被控訴人(注・上告人)は本件増築については信頼関係を破壊するに足りないと認めるべき特段の事情があるから、本件明渡請求は無効であると主張するところ、一般私人間の建物賃貸借においては、当事者は互いに自己の信頼に値する者のみを相手方として選択する自由があり、かつ自己の財産保全のためにはその必要があるから、当事者間に信頼関係の存することが建物賃貸借契約の存続の要件であり、かつ信頼関係が破壊されない限り、一方的に契約が解除されることはないと考えることができるが、公営住宅の賃貸借において、事業主体が入居者を決定するには、法一六条ないし一八条等の規定に基づき、もつぱら住宅に困窮する低額所得者の中からこれを定めるのであつて、もともといわゆる信頼関係の相手方にふさわしい者を賃借人(入居者)として選択する自由はないのであるから、公営住宅の使用関係に、私人間の賃貸借関係に用いられる信頼関係理論を持ち込むことは相当ではないと考えられる。それ故これと異なる見解に立脚する被控訴人の主張はもとより失当である。」

と(原判決二三丁裏〜二四丁表。)

つまり、原判決は、公営住宅の使用関係には信頼関係の理論を持ち込む余地はなく、上告人の前記主張はそれ自体失当だというのである。そして、当然のことながら、原判決は、上告人の右点に関する主張を具体的に検討することもなく、排斥してしまつた。

二、しかし、本件住宅の明渡し等を求める被上告人の請求を棄却した第一審判決は、原判決と全く異なる見解をとつたのである。

第一審判決はいつた。

「しかしながら、都営住宅の使用者が建増をするなどして条例二〇条一項五号に該当する行為に及んだ場合であつても、右行為が賃貸人たる事業主体との間の信頼関係を破壊するとは認め難い特段の事情がある場合には、公営住宅の使用関係の性質が基本的には私法上の賃貸借契約であることに鑑み、事業主体の長は、当該使用者に対し、右条項に基づき、右住宅の使用許可を取消し、その明渡を請求することはできないと解するのが相当である。」(第一審判決四六丁表)

そして、第一審判決は、詳細な事実認定を行なつたうえで(第一審判決四六丁裏〜五一丁裏)、

「これらの諸事実に照らすと、被告(上告人)が原告(被上告人)の許可を受けることなく、本件建物を建築したとしても、原告に対する信頼関係を破壊しない特段の事情があるものというべきである。」(第一審判決五三丁表)と論結したのである。

だとすると、公(都)営住宅の使用関係を信頼関係の理論によつて律すべきとするべきか(第一審判決の立場)そうではないとするか(原判決の立場)によつて本件の結論が異なつたといつても過言ではない。

原判決の前記立論は原判決の結論に直結していたのである。

三、ところで、第一審判決も認めたように、公(都)営住宅の使用関係の法的性質は基本的には私法上の賃貸借関係にほかならないから、都営住宅の入居者が建増などして都条例二〇条一項五号に該当する行為をした場合でも、それが賃貸人たる都との間の信頼関係を破壊すると認めるに足りない特段の事情がある場合には、都は入居者に対し当該都営住宅の使用許可を取消しその明渡しを請求することはできないと解すべきであつて、都営住宅の使用関係もいわゆる信頼関係の理論によつて律せられると解さなくてはならない。

原判決の前記立論には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背がある。

以下、詳論する。

四、さて、いうまでもなく、信頼関係の理論は、当初民法六一二条の賃借権の無断譲渡・転貸の場合の解除権行使を制限する法理として登場したが(最高裁判例では、昭和二八年九月二五日第二小法廷判決民集七巻九号九七九頁が最初のものである)、その後その他の債務不履行すべてについての解除権制限の法理として説かれるようになり今日確立した判例理論となつたものである(無断増築に関し信頼関係の理論を前提に解除を認めなかつた最高裁判例として昭和三六年七月二一日第二小法廷判決民集一五巻七号一九三九頁が、解除を認めたものとして昭和三八年九月二七日第二小法廷判決民集一七巻八号一〇六九頁がある)。

つまり、信頼関係の理論とは、賃貸借における解除権の行使を制限する法理として説かれたものであつて、解除権発生の要件を絞る理論構成のひとつにすぎないのである(鈴木禄弥『居住権論(新版)』一〇八頁、星野英一『借地・借家法』一一四頁)。

それ故「信頼関係破壊」あるいは「背信行為」といわれるものも、結局は、解除権の行使も止むを得ないと認めるべき場合をそう表現しただけであることに注意しなくてはならない〔この点について、星野教授は「一般的にいえば、通常の解除におけると同じく、なお賃貸人を契約に拘束しておくことによつて賃貸人に物的・精神的損害の生ずる恐れがあつて酷である場合が、広く『信頼関係破壊』にあたるといつてよい」(前掲書三四三頁)「具体的な債務不履行についてもそのていどが著しくないと解除原因にならないとされ、そのことを『信頼関係破壊』と呼んでいる……」(同六〇五頁)と説かれ(なお、同五五九頁以下、六〇六頁注(一)参照)、鈴木教授は「このように考えてくると、どのような表現を用いるにせよ、結局は、貸地人にひきつづき借地関係の継続を期待することができないような事態を生ぜしめたときに、借地人が信頼関係を破壊したとすべきだ、という抽象的な基準しか、存しえないことになる(判例、とくに最高裁の判例は、信頼関係破壊等の表現を頻繁に用いているが、その内実は、このようなものである)。」(同『借地法上巻』五六九頁)と論じられたのであつた〕。

そして、賃貸借契約において信頼関係が重視されるのは、それが継続的法律関係であるが故にであることもあらためて想起しておく必要がある(鈴木『居住権論(新版)』一五四頁)。前掲最判昭和二八年九月二五日も「賃貸借が当事者の個人的信頼を基礎とする継続的法律関係であることにかんがみ」といつた。なお、右最判における当事者の「個人的信頼」との表現にこだわるべきでないことはいうまでもない)。

そこで、増山宏裁判官が「信頼関係が破壊されたかどうかという判断基準も、その本質は、賃貸借関係の領域に働く信義則のあらわれにすぎないとみることができる」〔同「解除の理由となる賃料不払いの程度」(篠塚昭次他編『借地・借家の基礎(実用編)』二八三頁)〕といわれるのももとより正しくママといわなくてはならない(現に、最高裁昭和三九年七月二八日第三小法廷判決民集一八巻六号一二二〇頁は、家賃不払を理由とする解除につき、賃借人に信頼関係を破壊するに至る程度の不誠意が認められないときは解除権の行使は信義則に反し許されないと判示し、最高裁昭和四一年四月二一日第一小法廷判決民集二〇巻四号七二〇頁は、借地上の建物の増改築につき無断増改築禁止の特約に反する増改築でも、増改築が土地の通常の利用上相当であり、地主に著しい影響を及ぼさないなど賃貸人に対する信頼関係を破壊するおそれがあると認めるに足りないときは解除権の行使は信義誠実の原則上許されないと判示した)。

五、このようにみてくると、いわゆる信頼関係の理論についての原判決の理解は、まつたく皮相的で、誤つたものというほかはないことが明らかであろう。

原判決は、信頼関係の理論の根拠を説いて「一般私人間の建物賃貸借においては、当事者は互いに自己の信頼に値する者のみを相手方として選択する自由があり、かつ自己の財産保全のためにはその必要があるから、当事者間に信頼関係の存することが建物賃貸借契約の存続の要件であり」(原判決二三丁裏)などと説くが、しかし賃貸借契約において信頼関係が重視されるのは、既にみたように、それが継続的契約であるが故にであつて、契約締結に際して信頼に値する賃借人を選択した(し得た)ということがその根拠ではないのである〔このことは、賃貸人において賃借人を選択したとは必ずしもいえない場合にも(例えば、賃借中の建物が譲渡された場合の建物の譲受人と賃借人の関係、賃借人死亡により借家権を相続した者と賃貸人の関係、賃借権の無断譲渡がなされたが解除が許されない場合の賃借権の譲受人と賃貸人の関係など)、いわゆる信頼関係の理論によつて解除権の行使が制限されることに照らしても明瞭であろう。特に、解除が許されない無断譲渡の場合、承諾があつた場合と同様、その譲受人は適法な譲受人になると解すべきであるが(星野・前掲書三七八頁。鈴木禄弥『総合判例研究叢書民法(1)』三三頁、前枝忠了「借家権の処分と借家権の関係」篠塚他編『借地・借家の基礎(実用編)』一九四頁、田尾桃二「無断転貸と解除」ジュリスト別用ママ民法判例百選Ⅱ債権(第二版)一三三頁)、原判決の立論からは、このような場合には、「信頼関係理論を持ち込むことは相当ではない」ということになつてしまうが、かかる結論が誤つていることは多言を要しまい〕。

また、原判決は、公営住宅の賃貸借にあつては「(事業主体において)いわゆる信頼関係の相手方にふさわしい者を賃借人(入居者)として選択する自由はないのであるから、公営住宅の使用関係に、……信頼関係理論を持ち込むことは相当でないと考えられる」(原判決二四丁表)ともいう。しかしながら、「賃借人選択の自由の有無」が信頼関係の理論の根拠でないことは前述したとおりであるばかりか、公営住宅の賃貸借契約が私人間のそれと異なる側面を有するとしても、行政主体と契約締結には至らないが密接な交渉を持つに至つた場合ですら「当事者間の関係を規律すべき信義衡平の原則に照らし……信頼に対しては法的保護が与えられなければならない」とするのが判例であつて(最高裁昭和五六年一月二七日第三小法廷民集三五巻一号三五頁)、行政主体と継続的な契約関係を締結した者との間の関係は常に信義則ないしは信義誠実の原則によつて律せられるといわなくてはならないのである。そして、信頼関係の理論とはすなわち賃貸借関係における信義則ないし信義誠実の原則の具体的適用にほかならないことは既にみたとおりであつて、これまた最高裁判例に照らしても明らかだつたのである。だとすると、公営住宅の賃貸借にあつて、仮に原判決の指摘する事実があるとしても、それが公営住宅の賃貸借関係を信頼関係の理論によつて律することの妨げになるものではないといわなくてはならない(現に、公営住宅の使用関係の法的性格は私法上の賃貸借契約にほかならないとするのが学説・判例の一致して説くところであり、公営住宅の使用関係には信頼関係の理論の適用がないとする見解は、原判決以外にこれを発見することが出来ないのである)。

原判決は、信頼関係の理論にいう「信頼関係」の意義を、その言葉に惑わされたためか誤解し、似て非なる「信頼関係理論」を想定したうえで上告人の主張を一蹴してしまつたのである。

六、こうして、原判決が、公営住宅の賃貸借関係の法的性格ないしは信頼関係の理論の理解を誤つた結果、本件において信頼関係を破壊するに足りない特段の事情があるか否かについての判断をすることなくその結論を導いた点は、それだけで判決に影響を及ぼすべきことが明らかな法令の違背といわなくてはならないが、原判決には、この点に関連してさらに見逃すことのできない判断の遺脱がある。

すなわち、原判決は、上告人が原審で主張したいわゆる「確約の法理」を被上告人が原審で新たになした借家法一条の二に基づく正当事由による解約申入の主張に対する抗弁としてのみ理解したうえで(原判決一二丁表〜一三丁表)、本件では無断増築を理由とする本件住宅の明渡請求に理由があるとして、結局右「確約の法理」に関する判断は一切しなかつたのである。

たしかに上告人が原審で主張したいわゆる「確約の法理」が、ただ単に正当事由による解約申入の主張に対する抗弁としての意味しか持たないのだとすれば、原判決の右判示にはむろん誤りはない(原判決は、正当事由による解約の申入を理由ありと認めたのではないから、この点についての抗弁に関し判断を示す必要はないということになる)。

しかしながら、建物の賃貸借契約における債務不履行による解除の主張に対する抗弁と正当事由による解約申入の主張に対する抗弁とを截然と区別して理解することは正しくない。何となれば、解除権制限の法理たる信頼関係の理論によつて結局は解除も解約申入の場合とほとんど同様の制限に服しているのであつて、解約申入の主張に対する抗弁は、同時に解除の主張に対する抗弁にもなり得るからである〔鈴木禄弥教授は、「『解除』の効力は結局『背信行為なきとき』ないし『已ムコトヲ得サル事由アルトキ』などの一般条項に条件づけられており、それは、『解約』の効力が『正当ノ事由』の存在に条件づけられているのときわめて類似している。しかも、これらの一般条項は、たがいにその名称を異にするとはいえ、一般条項の性質上、その具体的内容にはそんなに差はなく、むしろ相互にあい覆う場合が多いから、『解除』の制限と『解約』の制限とは、事実上きわめて類似した形でおこなわれているといえる」(同『居住権論(新版)』九五頁)と説かれた。また借家人の債務不履行が解除の原因とはなり得なくとも正当事由の根拠とはなり得ると説かれていることも(鈴木『居住権論(新版)』一五四頁。星野『借地・借家法』五五七頁)あわせて想起すべきであろう〕。

本件の場合、被上告人の解除の主張は、無断増築を理由とするものであり、解約申入の主張は建替の必要を理由とするものであつて一見すると両者の間には関連がないかの如くであるが、しかし、上告人がいわゆる「確約の法理」として主張した具体的内容とは、つまり被上告人は上告人に対し本件住宅への入居に際し将来本件住宅を上告人に分譲する旨確約したのであるから、上告人がその後態度を一変させて本件住宅の明渡しを求めることは法的に許されないということなのであつて、解約申入の主張に対する抗弁であると同時に、本件増築を理由とする解除の主張に対する抗弁としての意味をもあわせ持つものだつたのである(将来分譲が予定されているからこそ、上告人は自らの費用を投じて本件住宅を良好な状態に管理してきたし、本件建物を増築したこともその一環にほかならず、被上告人の右確約に照らせば、被上告人が本件増築を咎めることは許されないという主張)。

だとすると、原判決が、右の点に関する上告人の主張をただ解約申入の主張に対する抗弁としてのみ理解し、この点について何らの判断を示すことなく、被上告人の解除の主張を理由ありと認めたのは、明らかに判断遺脱の違法を犯したものといわなくてはならない。

第二、信頼関係を破壊しない特段の事情の存在

一、既に述べたとおり、本件住宅に関しても信頼関係理論が適用されるのであり、第一審判決の判示が正当であつて原判決の理論は誤つたものといわざるを得ない。そこで本件について信頼関係を破壊しない特段の事情が存在することを以下に明らかにする。

二、第一審判決の認定事実

第一審判決は次の事情を認定し、原判決も特にこれを排斥していない。

「(1) 上告人は、本件住宅に入居する四か月ほど前の昭和三三年三月に結婚し、入居当時の家族は妻と二人だけであつたが、その後、昭和三四年一月に長女が、次いで昭和三六年六月に長男が生まれて四人家族になり、本件建物を建築した昭和四九年七月当時、長女は高等学校一年生、長男は中学校一年生であつた。上告人が本件建物を建築するに至つた動機は、本件住宅の間取りは別紙図面(三)記載のとおりであり、当時、家財道具も増えて手狭となり、子供も成長し、時には長女の着替えの場所にも事欠き、夫婦間の房事さえも子供のため気を配らねばならない事態に立ち至つたことから、にわかに子供のための部屋を建増しする必要があると強く感じ、本件住宅の敷地であるが庭地として空いていた本件土地上に本件建物を建築することを決心したものである。

(2) こうして、上告人は、建築業者に注文して本件建物の建築にとりかかつたが、上告人は、当時、都営住宅の増築をするには都知事の許可を受けることが必要であることを知つていたものの、前記のとおり、簡易耐火構造の都営住宅の増築について、被上告人が床面積3.3平方メートルのものまでしか許可しないという方針をとつていたので、たとえ本件建物の建築についてその許可を申請しても許可を受けられる見込みはなく、許可申請をしても無駄であると考えるとともに、後記認定のとおり都営住宅の増築については、被上告人の許可を得ないで無断増築をしている例があることから、本件建物の建築についても、被上告人の許可を受けないでしても許容されるものと速断して工事を始めた。そして、工事開始後、右事実を知つた原告の係員から、当初は電話で、後には呼出されて口頭で工事の中止を指示されたほか、工事現場に工事の中止と原状回復を命ずる立札をも立てられたが、右の呼出を受けた当時にはすでに本件建物のための鉄骨の組立がほぼ終つていた状態にあつたことから上告人は、被上告人の指示命令に従うことなく工事を続行し、同年九月初めころ本件建物を完成させた。なお、本件建物は工事を開始してより完成まで二か月ほどの期間を要したが、その間、継続して工事が行なわれていたものではなく、工事予定期間をかなり超過して完成したもので、建築費は約一五〇万円であつた。

(3) 右のとおりの経過で上告人の建築した本件建物は、本件住宅を全く損傷することなく、これと若干の間隔をおいて建てられたものである。その構造は、本体を長さ三メートルほどの六本の鉄骨で支えた高床式のもので、床の位置が本件住宅の庇より少し上方に位置し、支柱の鉄骨は、周囲にではなく、鉄骨のあるそれぞれの場所に深さ三〇センチメートルほどの深さに流し埋めて作られたコンクリート基礎にボルトで締着されているものであつて、建物本体の床や桁にも鉄材が使用され、骨組みは鉄製であるが、壁は土壁ではなく、外壁はブリキ製の波板で内側はガラスウールの上にベニヤ板の化粧板を張つたものであり、屋根はトタン葺のいわゆるプレハブ様の木造住宅(床面積は19.80平方メートル)で、地上から建物の出入口まで昇降用の金属製の階段も取り付けられている。その間取りは、別紙図面(四)記載のとおりである。

上告人が右のとおり、本件建物を高床式のものとしたのは、本件住宅は四戸一棟の長屋式建物の一戸であるところ、同住宅の南側にある住宅の北側に臭気抜きがある一方、本件住宅の東隣りの入居者がその入居している住宅の軒に接してすでに低床式の建物を増築していたので、本件建物も低床式のものとして右増築建物に並べて建築すると臭気がたまると予想されたので、右の東隣りの入居者と相談のうえ高床式のものとしたのである。そして、これまで本件建物のために日照や通風、採光等が阻害されるとの苦情が上告人に寄せられたことはない。

(4) 次に、都営住宅の増改築状況をみるに、本件住宅のある都営第五練馬北町三丁目住宅と隣接の都営第四練馬北町三丁目住宅とには併せて都営住宅が二六〇戸存するが、うち木造住宅が一九四戸、簡易耐火構造住宅が六六戸で、その昭和五一年一二月当時の増改築状況は、木造住宅のうち増築をしているもの一七〇戸、増築をしていないもの一四戸、不明一〇戸で、目測による平均増築面積は約一四平方メートル、簡易耐火住宅のうち増築をしているものは五七戸、増築をしていないものは三戸、不明六戸で目測による平均増築面積は約一一平方メートルであり、入居者の相当数が増築しており、増築建物の用途も居室のほか、物置、車庫、沿ママ室、洗濯場等と多様であつて、簡易耐火住宅で本件建物より広い増築面積のものも数戸ある。都営住宅で増改築のされている戸数が多いのは右の団地だけに限られたことでなく、他の都営住宅においても概ね同様にみられるところであつて、相当数が大なり小なりの増改築をし、中には少数ながら二階建建物を増築している例もあり、そして、これらの増改築は、原告の許可を得ないで無断でされたものが多数に及んでいる。

以上認定した事実によると、本件建物の床面積が19.80平方メートルで本件許可基準である一〇平方メートルをこえているが、他の許可基準である「位置及び環境が住宅の維持に支障がないとき」の要件は充足されていると認められること、上告人が本件建増を必要とした事情には極めて深刻なものがあり、その必要性は極めて強かつたこと、本件建物は、本件住宅に附合するものではないから、被上告人が、その修繕義務を負つたり、被告との本件住宅についての賃貸借契約が終了した際に有益費償還義務を負うこともなく、財産上の負担の増大をもたらすものでないこと、上告人が、本件建物の建築許可を受けることなく、また、被上告人の本件建物の建築工事の中止命令を無視して工事を続行したのは、非難に値いするが、上告人が右のような所為に出るに至つた一因は、原告が本件事務取扱基準に基づき、床面積が3.3平方メートルをこえる建増について許可しないとの行政指導をしそママことにあり、本件事務取扱基準の右の部分は、前記のとおり本件許可基準より厳しい制限をしているものであつて、その効力に疑義があるものというべきであるから、右所為について上告人のみに責任を負わせしめることは当を失していること、被上告人は、都営住宅を無断で増改築をした使用者が多数存在しているにもかかわらず、本件に至るまで使用許可の取消をして明渡を求めたことはなかつたこと等の事実が明らかであり、これらの諸事実に照らすと、被告が原告の許可を受けることなく、本件建物を建築したとしても、原告に対する信頼関係を破壊しない特段の事情があるものというべきである。」

以上の認定はまことに正当であり、その認定にもとづく判断も正しい。

三、一件記録によつて認められるその他の事情

右第一審判決の認定した事情の他一件記録によれば次の事情も認めることができる。

(1) 上告人の居住期間と居住態度

上告人は昭和三三年七月二五日から本件住宅に居住し、その後原審終結時まで二三年間、本件増築時までも一六年間、解除時まで一七年間居住し続けてきたことは当事者間に争いがない。さらに上告人の本人尋問によれば、上告人は本件住宅を含む団地の役員にもなり、その上部組織の役員も務めてきており、公営住宅の居住者の地位の向上に関心を持ち努力してきたこと、道路の補修や外灯の設置を住民が独力で行い整備に努めてきたこと、上告人は本件住宅に永住する意思をもつて居住してきたことが認められる。従つて、居住して間もない者や短期間しか居住の意思がない者がその場の都合で増改築をするのとは自らその意味が異なるのである。上告人のように長期間本件住宅に居住して、自ら住宅の改善に努力してきたことは有利な事情であつて、信頼関係理論適用については重く斟酌されるべきである。

(2) 都の本件住宅に対する維持、改善の努力の欠如

一方被上告人は上告人ら居住者が道路を補修する際に陳情をしたのに何らの対策も講じないで放置していたばかりでなく、本件住宅に対しては一切修繕等を行つていないことは明らかである。

都が上告人に対し常に居住条件の向上に留意し、自ら上告人のために増改築をしていたというのならともかく、このように住宅の維持に何ら努力をしなかつた都が、自らの費力と努力で維持に努め、その結果居住条件の改善のために已むを得ず増築した者に対し、信頼関係を云々する資格はない。むしろ従来信頼関係を破壊してきたのは被上告人の方である。従つてこれら被上告人の態度に照らしてみるとき、上告人の所為には信頼関係の破壊はない。なお前掲の最判昭和三六年七月二一日も家主が修理をしない点を信頼関係判断の上で重視しているところである。

(3) 原状回復の容易さ

本件増築部分が本件住宅を全く損傷することなく、これと若干の間隔をおいて建てられていることは第一審判決が認定し、検証の結果、乙第二九号証の一ないし三によつて明らかであるが、このことは本件増築部分の原状回復にとつても重要である。乙第一九号証の一の一ないし六によつて明らかなとおり、本件団地のほとんど全てが行つている増築には住宅本体に接続し一体となつているのが多数存するが、これらの増築は規模の大小を問わず本体を損傷せずに原状回復することは困難である。ところが本件の場合は本体と接していないため、原状に復する際に本体を損傷することは全くない。このことは極めて重要である。

次に、本件増築部分は高床式であるため、基礎にコンクリート、建物の支えに鉄骨六本等を使用してあるが、コンクリートと鉄骨、鉄骨どうしの接続はボルトによつてなされており、建物部分も木造プレハブ様の組立て式で、その取り毀しも簡単であつて、業者に依頼すれば一日でも原状に復することができる。しかも原状回復については上告人が行うことを言明しているのであるから、被上告人には何らの負担もかからないのである。

(4) 敷地の広さ

本件住宅の敷地が80.20平方米であることは被上告人も認めているが、この敷地の面積は本体の面積28.58平方米からすれば相当広い面積であり、本件増築前の南側庭部分は43.12平方米で相当余裕のある庭である。これらの敷地を有効に使用するのは合理的であり、あながち非難されるべきではない。ましてや、前述のとおり健康で文化的とは全くいえない狭い住宅に暮らし親子四人が日常的に深刻な悩みを有していた上告人にとつてはなおさらである。しかも、本件増築部分は19.80平方米で右庭部分の二分の一以下であつて敷地の一部を利用したというにすぎない。本来庭として自由に使用を認められていた部分であるからその一部を居住の必要のために利用したとしても貸主の被害はほとんどない。

(5) 増築前の居住条件の劣悪さ

増築前の上告人の家族は四人、畳数は10.5畳である。これは一人当りにすると2.625畳という劣悪狭隘な数字となる。これが公住法一条の「健康で文化的な生活を営むに足りる住宅」といえないことは多言を要しない。

このことは統計的にみても明らかで、上告人提出の甲第二五号証の統計によつても、都内の普通世帯の平均で一人当り6.1畳、民営借家で一人当り4.8畳、さらに都営住宅応募者ですら一人当り2.68畳であり、上告人の当時の居住条件と比較すれば数段良かつたのである。上告人の居住条件はこれから応募しようとする被上告人のいう「住宅困窮者」をママそれをも下まわつていたのであり、上告人こそが最たる「住宅困窮者」であつたことが以上の数字からも明らかとなつている。

四、原判決の指摘する事情に対する反論

(1) 原判決は二四丁裏から二五丁表にかけて、本件増築部分の基礎が堅固に組立てられていることを指摘する。

しかしながら、右は本件増築部分が倒壊することのないよう基礎がしつかり組みたてられていることを言うにすぎない。高床式にするためにはある程度基礎を建築方法上強固にしなければ危険であるから、倒壊等の危険のないように建築するのは当然であつてこのこと自体を非難することは当らない。かえつて、軟弱な基礎で建築することは、自己及び近隣への危険をもたらし、相当ではない。

問題は、本件増築部分の原状回復が容易か否か、本体を毀損していないかどうかであつて、基礎に鉄骨が何本使われているか、支えが堅固か否かということではない。原状回復の容易さ、本体を毀損していないことは既に述べたとおりであつて、何ら問題はないのである。

(2) 本件増築部分の高さが約6.5メートルであり、隣家の棟高を超えていることについて

確かに本件増築部分はその高さが約6.5メートルとなつており、隣家の棟高を超えている。しかし、それらの棟高は四メートルであるから超えている部分は2.5メートルしかないのであつて、著しく超えているとも言えない。そもそも上告人が何故地面に接して増築せず高床式にしたかは、前記第一審判決認定のとおりであつて、臭気等の不都合を防止するため近隣と相談の結果これを採用したのである。しかも、日照、通風、採光が従前と比較して悪化しないよう配慮したため苦情が寄せられたこともない。このように高床式にしたのは上告人の悪意によるものでも自己の都合のみを考慮したのでもないのである。上告人としては隣人との関係がなければむしろ通常の建て方を採つていたはずであり、その方が費用も安くて済んだのである。高床式の結果高さが他の棟高を超えるという外部的な面のみによつて信頼関係を判断することは相当でない。

(3) 上告人の増築に係る事情が上告人方に特有なものではなく、上告人には許可を得て増築したり、都営住宅から他に転出することを選択できたはずであるとの点について

まず右の判示はその前提が、増築が入居者にとつて真にやむを得ないもので、他にとるべき手段がないという極めて限定した厳しい条件を前提にしてこれにあてはまらないとしたものであつて、信頼関係理論で認められる場合よりもはるかに限極した場合のみを想定しているのでその前提を異にしている。原判決はあたかも正当防衛、緊急避難の要件を要求しているのであつて、これを要求するのは一切増築を認めないというに等しく、信頼関係理論の立場からは容認できない立場をとつているため、前提自体が失当であるが、以下個別の判示に反論を加える。

第一に、事情が上告人方特有なものではないとする点であるが、確かに都営住宅居住者の中に上告人と同様の深刻な悩みを持つ者が他にいるであろうことはそのとおりである。しかし、だからこそ既に述べたように、都営住宅のほとんどで増築が行われており、中には上告人同様二階建建物を増築している例もあり、本件団地内においても平均増築面積が木造住宅で一四平方メートル、簡易耐火住宅で一一平方メートル、最高で44.55平方メートルも増築が行われているのである。そして被上告人はこれらの事実を黙認しているのである。

ところで上告人方の事情が仮に上告人一人に特有でないとしても、このことはその事情が人間生活上深刻で座視できない事情であることに変りはない。子を持つ親であれば誰しもであるが、高一と中一という思春期を迎え、勉学上最も重要な時期の子供が、親の房事に気を使つてこれを訴え、着替えも便所で行い、勉学の場所にも困るということを知つたとき、その悩みはその者にとつては固有の深刻なものとなるはずである。それが深刻であり同情を禁じ得ないものであれば、特有なものであるかどうかなどということは関係がない。該に幸は皆似たようなものだが、不幸はそれぞれに異なるという。しかも、上告人の場合、子供が男と女であること、共に思春期で感受性が強くなつていたこと、受験期であつたこと、勉強の場所との関係で寝室が一つしかなかつたことはそれぞれ特有の事情の積み重ねであつて、その意味で特有の事情であるということもできるのであるから原判決の指摘は全く不当という他はない。

第二に、許可を得て増築をすることについてであるが、第一審判決も指摘するとおり、被上告は増築許可の範囲を条例施行規則に反してまで不当に厳しく制限し、本件住宅については3.3平方メートルまでという事務取扱基準を定めていたため、被上告人の許可という形ではとうてい有効な増築をすることは出来ないことは明らかであつたことは第一審判決も指摘するところである。前記のほとんどの者が行つている増築は全て右事務取扱基準を超えて無断でなされていたことは、そのことを明らかにしている。一方都はこれらの増築について調査したこともなく(太田証人)、特別な措置もとらぬまま多くの年月が経過しているのであり、事実上黙認しているのである。従つて上告人が都の許可なく本件増築をしたとしても無理からぬものがあり、責められないところであるとみるのが相当である。

第三に、都営住宅から他へ転出することが出来たはずであり、出来なかつたという特段の事情がないという点である。

まず、上告人が他へ転出できたはずであるという点は何を根拠にそう判断したのかが全く不明であり、証拠にもとづかない判断である。当時土地建物は高騰を極め政治問題ともなつていたことは公知の事実であり、下級の会社員であつた上告人には住宅を購入することや、希望する規模の民間借家を借り受けることは前者については不可能であり、後者については著しい生活困難を発生させたであろうことは証拠上も明らかである。原判決は住宅購入等を日用品でも買うかのごときと同視しているとしか考えられないもので、具体的な点で誤解している。

仮に原判決が、およそ移転不可能な者はおらず、そのような者は増築をせず移転すべきであるという認識にたつとすれば、何をか言わんやである。これは文句のある者は出て行けというに等しく、正しく増改築の許否を判断する態度ではない。残念ながら原判決にはそのような認識が行間から読みとれるのである。

次に移転の選択ができなかつたことを特段の事情として立証すべしという立場について反論する。

まず移転の選択ができない特段の事情というのが何を指すのかが明らかでない。例えば経済的に無理ということであれば既に述べたとおり明らかになつているし、極端に貧しく生活にも困るということを要求するのであれば、都営住宅の賃料も払えず賃料不払いで解除されてしまうことになる。結局原判決の要求するものは定かではなく、つまるところ言葉の遊びでしかないのである。

そもそも、本件解除の成否について移転の選択をもち出すのは異例な発想であり独自の見解であつて、とうてい認められない理論である。もともと居住というのはその継続性、安定性が重要であつてこれを保護するために刑法においてもみだりにこれを侵害されないよう規定をおいて保護しているのである。そこには転出の可能性などという発想は出てこない。居住を継続することが出来るかどうかということが争点なのであり、転出できるかどうかが問題となるのではない。原判決は住居移転の自由と居住の権利を混同しているのである。移転することは自由であるがこれを強制することとは別である。移転の自由があるからといつて、増築に際して移転を特段の事情がない限り選択させることとは全く別であり、全く不当な見解である。

原判決のいう移転選択の可能性は、居住の必要性とも別の概念となつているように思われるが、居住の必要性が存在すれば、移転云々を別に考慮する必要はない。しかし、原判決によれば居住の必要性があつても、なお他への移転の可能性をどこまでも追求すべしという理論に等しく、さらには物理的移転の可能性すら問題にしかねないところまで発展してしまうおそれすらある。例えば経済的に無理であつても、経済的な努力を怠つてきたことを問題にすることも可能となつてしまい訳の分らない理論となつてしまう。原判決の理論は住居という人間生活上本来代替性のないものについての居住の必要性という概念を住居を代替物のように考えてしまうことによつて根底から崩してしまうものであつて居住権概念と相いれない考え方である。

五、以上述べたとおり、上告人の本件増築は信頼関係を破壊しない特段の事情が存し、被上告人の請求は理由がない。

第三点 〈省略〉

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